『スタイルズ荘の怪事件』(原題:The Mysterious Affair at Styles)は、アガサ・クリスティが20代半ばに執筆し、紆余曲折を経て30歳のときに出版された記念すべきデビュー作です。
1920年に、まずはアメリカで先行して出版され、その後1921年に自国のイギリスで刊行されました。
巻末に書かれていましたが、日本での初版は1937年、東福寺武訳の『スタイルズの怪事件』だそうです。現在のタイトルは『スタイルズ荘の怪事件』。山田蘭さんの新訳版で楽しむことができます。
クリスティは、第一次世界大戦中に薬剤師助手として働きながらこの作品を執筆しており、その経験が毒薬の描写や犯行方法にリアリティと説得力を与えています。
物語には「毒薬」が登場しますが、この点においてもクリスティの背景が大きく影響しているようですね。
1920年当時の読者は、この革新的なストーリーにきっと衝撃を受けたことでしょう。
そして、この作品は、名探偵ポワロが初めて登場する記念すべき物語でもあります。
ベルギー人の元警察官であるポワロは、卓越した観察力と「灰色の脳細胞」を駆使して事件を解決していくキャラクターです。
「灰色の脳細胞」という言葉は、原作に出てくる「little grey cells」(小さな灰色の細胞)の日本語訳で、ポワロの知性や推理力を象徴するフレーズとして親しまれています。
英語には「grey matter(灰白質〈かいはくしつ〉)」という言葉があり、脳の神経細胞を指す用語として使われています。この用語をポワロのセリフにユーモラスに取り入れ、「すべてはここの働きしだい(アップ・トゥー・ゼム)」と灰色の脳細胞を叩きながら、自信たっぷりに語らせています。
どんな小さな手がかりも決して見逃さず、自ら動いて真実に迫るフットワークの軽さがポワロの最大の魅力。その独特の捜査スタイルは、初登場の時点で既に完成されていたんだな、と改めて感じました。
このように、ユニークなキャラクターと斬新な推理スタイルを持つポワロが、後にクリスティ作品を語る上で欠かせない存在となったのも頷けます。
原題:『スタイルズ荘の怪事件』
著者:アガサ・クリスティ
翻訳:山田蘭
出版社:東京創元社/創元推理文庫
発行日:2021年4月23日
ページ数:365ページ
ジャンル:本格ミステリ
Original Title: The Mysterious Affair at Styles
Author: Agatha Christie
Published Year: 1920
Genre: Classic Mystery / Detective Fiction
ではここからは、この作品を読んで感じた私の感想をお話ししていきたいと思います。
簡単あらすじ
舞台はイギリスのサセックス州、田園地帯にあるスタイルズ荘。
この邸宅で毒殺事件が起きる。
被害者は裕福な未亡人エミリー・イングルソープで、事件解決のために名探偵ポワロが動き出す。
舞台設定は「クローズド・サークル」
舞台となるスタイルズ荘は、イギリスの田園地帯にある古い邸宅です。
物語の設定は、外部との接触が断たれた閉ざされた空間で事件が進行する「クローズド・サークル」と呼ばれる形式のミステリー。この状況では登場人物が限られるため、犯人もその中にいることが明確になります。
「クローズド・サークル」の舞台としては、雪で閉ざされた山荘、孤立した島、豪華客船などが典型的ですね。
この形式の魅力は、閉ざされた環境の中で疑心暗鬼や緊張感が高まり、読者も登場人物と一緒に「誰が犯人なのか?」を推理する楽しさを味わえる点でしょう。
『スタイルズ荘の怪事件』も、屋敷内で起きた事件を閉ざされた環境で解明する物語です。
そして、その案内役が今回初登場する名探偵ポワロ。この設定が物語をさらに盛り上げていきます。
『スタイルズ荘の怪事件』を読みながらふと思い出したのは、S.S.ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』。
こちらも1920年代を舞台にした本格ミステリーで、探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する物語です。
どちらも、古き良き時代のクローズド・サークルの魅力を存分に味わえる作品です。
このように、本と本が繋がっていく瞬間は、私にとって読書の楽しみの一つでもあります。
毒薬のリアリティ
毒薬を使った犯行の描写も見事で、薬剤師助手として働いていたクリスティーならではのリアリティがありますね。
具体的な毒の種類や作用についての説明がとても自然で、まるで自分もその場で実験を見ているかのような感覚に引き込まれます。
この科学的な正確さが、犯人の犯行方法に説得力を持たせ、読者をより深く物語に没入させていくのでしょう。
クリスティーの作家としての挑戦
『スタイルズ荘の怪事件』は、アガサ・クリスティのデビュー作であり、クリスティのキャリアを象徴する重要な作品です。
この作品が世に出るまでにはいろいろなことを経ています。
・1914年、第一次世界大戦勃発
・その年にアーチボルド・クリスティ大佐と結婚
・戦時中は陸軍病院で薬剤師助手として勤務
・ふと探偵小説を書いてみようと思い立つ
・書き上げた作品を出版社に送るが不採用となる
・妊娠・出産
・生活に忙しくなり小説のことは忘れてしまう
そして、小説を出版社に送った2年後、運命の輪が回り始めます。
出版社から、「小説の一部を変更すれば出版できる」と提案の連絡が入り、執筆から4年後、ついに『スタイルズ荘の怪事件』は刊行されることになりました。
この一冊がきっかけとなり、そして六作目の『アクロイド殺し』の大ヒットで、“ミステリーの女王”の名を確固たるものとしました。
ふと思いついてやってみたことの大切さ、そしてその小さな一歩の威力をまじまじと感じさせられます。
きっとそこには、書く喜び、読んでもらう楽しみ、という太陽のような輝く心が乗っていたのでしょうね。
自分の中にもあるかもしれない「やってみたいこと」を静かに観察してみたくなりました。
最後に
『スタイルズ荘の怪事件』は、世に出るまでに紆余曲折を経てきた作品です。
その背景を思い浮かべながら、ゆっくりとお茶やコーヒーを片手に読んでみるのはいかがでしょうか。
クリスティのデビュー作ならではの魅力、ぜひ味わってみてくださいね