感想|『孔雀と雀』バーレーンとアラブの春を背景に描く沈黙のスパイ劇

目立つ者と、目立たない者。
孔雀のように飾り立てた国家と、雀のように息をひそめる人々。

I・S・ベリーのスパイ小説『孔雀と雀』(副題:アラブに消えゆくスパイ)は、

バーレーンを舞台に、任務の終わりを迎えるスパイが、変わりゆく中東の片隅で自分の終焉と向き合う物語です。

銃撃戦もスリルも控えめですが、それでも胸に残るのは、海を挟んだ隣国との緊張、宗派による見えない分断、敵か味方かすら曖昧な日常が淡々と描かれているからかもしれません。

ではここからは、物語の輪郭をたどりながら、感じたことを綴っていこうと思います。

タイトル:『孔雀と雀 アラブに消えゆくスパイ』
著者:I・S・ベリー
翻訳:奥村章子
出版社:早川書房
発行日:2025年3月25日
ページ数:571ページ

Title: The Peacock and the Sparrow
Author: I. S. Berry
Publication Year: 2023
Country of Publication: United States
Genre: Spy Novel

簡単あらすじ

『孔雀と雀』は、派手なアクションやスリリングな展開を期待すると、少し肩透かしを感じるかもしれません。

そのかわりにあるのは、呼吸するように淡々と綴られる心理描写と、
中東の重たく乾いた空気がじわじわと胸に迫ってくるような感触です。

主人公は、退職間近のアメリカCIA職員。
バーレーンに駐在し、シーア派の背後にあるイランの動きを探るのが任務です。

この国では、スンニ派王政とシーア派住民との間に根深い対立があり、社会のあちこちに緊張が漂っています。

ただし主人公は、その対立の只中に飛び込むわけでも、大きく関与するわけでもありません。

気づけば事態は始まり、気づけば終わっている。
そんな、わずかな距離感の中で物語は静かに進んでいきます。

「孔雀と雀」のタイトルに込められた意味

物語のタイトルにもなっている「孔雀と雀」は、あるモザイク画に付けられた作品名からきています。

その意味は「孔雀は王さま、雀はその家来」

この言葉には、こんな教訓が込められているとされます。
それは「どんなに用心していても、運命には逆らえない」ということ。

小さな雀が、身をもって知ることになった避けがたい運命。
それが、物語全体にも静かに響いています。

中東とはどこ?意外と知らない地域の国々

おおまかに、アフリカ北東部~アジア西部にかけての地域で、以下の国々が含まれます。

アラビア半島

  • サウジアラビア
  • アラブ首長国連邦(UAE)
  • カタール
  • バーレーン
  • クウェート
  • オマーン
  • イエメン

東地中海地域

  • シリア
  • レバノン
  • ヨルダン
  • イスラエル
  • パレスチナ(ガザ・西岸)

アジア西部

  • イラク
  • イラン
  • トルコ

地図の上では一続きに見えても、それぞれの国に異なる歴史や文化、宗教があります。

だからこそ、この揺れ動く地域には、スパイ小説にふさわしい複雑さと深みがあるのかもしれません。

バーレーンとはどんな国?

EXPO2025 大阪・関西万博 で撮影した「バーレーン館」

舞台は、ペルシャ湾(アラビア湾とも呼ばれます)に浮かぶ、中東の小さな島国・バーレーン。

本作では「バーレーン」と記されていますが、書籍によっては「バハレーン」と表記されていることもあります。

この国の広さは、東京23区ほど。
小さいけれど、かつてはディルムンと呼ばれた古代の交易の地でもありました。

今ではサウジアラビアと「キング・ファハド・コーズウェイ」という長い橋で結ばれ、海の向こうにはカタールやイランといった大きな国々が控えています。

小さな島国ですが、
その周囲には常に政治と宗教の緊張が渦巻いている、そんな場所がバーレーン。

かつてバーレーンは真珠の世界的産地だった

EXPO2025 大阪・関西万博で撮影した バーレーン館で展示中の真珠

バーレーンは、天然真珠の産地として世界に知られていました。

澄んだ海と熟練の潜水技術で採れる真珠は、長くこの国の誇りでもありました。

ところが20世紀初め、日本の御木本幸吉(みきもと こうきち)が養殖真珠の生産に成功します。

「ミキモト」の名とともにその技術が広まると、天然真珠の需要は急落。

国の主要産業は大きな打撃を受けます。

けれどその後の1932年、この国では石油が発見され、運命が大きく転換します。

真珠から石油へと、バーレーンは新たな富を手にし、中東の中でも重要な存在へと変わっていきました。

EXPO2025 大阪・関西万博で撮影した「 バーレーン館の真珠貝と道具」

4000年前、バーレーンはディルムンと呼ばれていた

バーレーンは、古代メソポタミアの記録に「ディルムン」の名で登場したとされる、歴史ある交易の拠点です。

約4000年前には、シュメールやアッカドの文明とも深く関わりを持ち、神話の楽園とも呼ばれていたことがわかっています。

小さな島国ながら、今も各地に古代遺跡が残り、かつてこの地に謎の海洋王国が存在していた面影を伝えています。

ディルムンの歴史にもっと触れてみたい方には、書籍『謎の海洋王国 ディルムン』もおすすめです。

命の木(Tree of Life)とは?

命の木

バーレーンには、砂漠の真ん中にぽつんと立つ

「命の木(別名:生命の木|Tree of Life)」という不思議な木があり、本書にも登場します。

水源も不明で、雨もほとんど降らない土地で(なんと年間降水日数が10日くらい)、400年ものあいだ枯れずに生き続けているそうです。

しかも、この地はかつて「エデンの園」のモデルではないかと語られたこともあり、命の木には、どこか伝説めいた空気が静かに漂っています。

著者紹介|I・S・ベリー(I.S. Berry)

I・S・ベリーは、元CIAの作戦担当官という異色の経歴をもつ作家です。

ハバフォード大学を卒業後、ヴァージニア大学ロースクール(法学部)へ進学し、法務の道から国家の安全保障の現場へと進みました。

実際に戦時下のバグダッドで任務に就いていた経験を持ち、現地での緊張感や人々の空気を肌で感じてきた人物です。

その経験をもとに執筆されたデビュー作が、2023年刊行の小説『孔雀と雀 アラブに消えたスパイ』。スパイ小説でありながら、文学的な深みと余韻を湛えた作品として、注目を集めました。

感想

『孔雀と雀』を読みながら、バーレーンという国の重なり合う時間に思いを馳せていました。

古代ディルムンの遺跡、命の木、モザイク画、

そんな静かな歴史の気配の中に、現代のオペラハウスや政治のざわめきが共存している。

アラブの春、宗教の分断、民主化の波。

そのただ中で、主人公は声を荒げるでもなく、静かに終わっていく時間を見つめているようでした。

どこか風の音のような、静かだけれど深く心に残る物語。私にとって、バーレーンという国が少し特別な存在になりました。

まとめ

大きな動きの裏にある、小さな終わりや静かな感情を描いた物語に心を引かれる方へ。

中東の空気や、スパイの孤独なまなざしにそっと触れてみたい方におすすめです。

バーレーンという国が深く心に残るような一冊です

thank you